何が何やらワケワカメ

映像作品(主に特撮やアニメ、ホラー)について書く。

相反する感情が交錯する戦場で、一心不乱に拳を振るう…な第48話。

f:id:hirohobby:20160106224730j:image

仮面ライダークウガ」感想。

【episode48 空我】脚本:荒川稔久

こんにちは、キャキャロット(@anothercommuni)です。今回は私なりの【仮面ライダークウガ論】を絡めて感想を述べました。もし「いや私はこう考えたぞ!!」と意見のある方は、是非コメント欄にご記入お願いします。そして2016年1月6日にはBlu-ray BOX1が発売されましたね。今年もクウガが熱いぜ。

  • 始まりと終わり。

f:id:hirohobby:20160106224909j:image
五代「じゃあ見ててください、俺の変身」
■【episode2】の台詞と重なる。一条は、五代の(自らの意志による)"最初の変身"の現場に居合わせた。そこから二人の関係は始まり、いくつもの死線をくぐり抜けたことで強い絆で結ばれた。お互いが特別な存在である為に、五代の"最後の変身"に立ち会うのは一条こそが相応しい。

  • 最終決戦。

f:id:hirohobby:20160106224938j:image
"善=黒"で"悪=白"と、クウガとダグバのこの図式は「人造人間ハカイダー(1995年)」のハカイダーとミカエルを連想させる。それは容姿に留まらず、行動の本質にも共通する。

■一般的には、"善=白"(清廉潔白で肯定的な印象、良い色)と"悪=黒"(恐怖感や威圧感を増長させる否定的な印象、悪い色)といったイメージが根付いているように思える。それは視覚のみで、感覚的に物事を捉えていることになる。同様に感覚に基づいてクウガとダグバの容姿から善悪を判別すると、間違いなく本質を見誤る。アルティメットフォームの禍々しい姿、ダグバの神々しい姿は誤解を与える。しかし両者が戦いに挑む背景を考慮すれば、どちらが善悪に属するかは簡単に判別できる。単純に言えば"外身ではなく中身、本質や実態を見ろ"ということを、私はクウガの物語(特に終盤)で学んだ。既成概念や常識が偏見を生む、生きる上で総ての物事に当てはまる大切な教えだった。

f:id:hirohobby:20160108125706j:image
ハカイダーは劇中で「俺は悪だ」と発言している。それは、敵(ミカエル)が「自らが正義」と称していることから敢えて反語として"悪"という単語を用いた。俺はお前と対立する存在である、と表明する意味で。現に、ハカイダーの行動は紛れもなく正義を体現していた。

f:id:hirohobby:20160106224955j:image
f:id:hirohobby:20160106225007j:image
■血がほとばしる戦場。愉悦を感じるダグバに対して、悲哀を強く感じている五代。「仮面ライダークウガ」という番組は、他者へ拳を振るうことを是としてはいない。同じ戦場に立ち拳を交えているクウガとダグバは、暴力を振るっている点では同じ行動である。皆の笑顔を守るという動機であれ、グロンギが残忍極まりない敵であれ、如何なる理由であっても番組は"拳を振るう(暴力の)虚しさ"を度々視聴者へ訴えかけていた(椿を殴った蝶野、ジャラジへ憎しみをぶつけたクウガ、憤る奈々へ本心を打ち明けた五代、犯人を捕らえる一条に恐怖した実加)。今回は変身が解除されたことで、戦っている五代の表情が露になった。涙を流しながら拳を振るう姿を見た視聴者は、番組側のメッセージを理解して受け入れることが出来ただろう。

  • 告白…?

f:id:hirohobby:20160106225045j:image
バラのタトゥの女「ビビギダダ・ゴラゲゾ・パラダ・ガギダ・ギロゴザ(気にいった、お前とはまた会いたいものだな)」
グロンギ族の中で、彼女だけは現代のリントの思想や文化を理解しつつあった。リントの言語を流暢に話せるようになった今、何故最後の言葉だけグロンギ語だったのだろう。我々は敵対する間柄だから…と立場を弁えたのだろうか。もしくは素直に本心を明かすのが照れくさかったから?
一条「お前達と我々は違う!お前達のような存在がいなければ…」
バラのタトゥの女「だがお前は、リントを狩る為の…リントの戦士のはずだ」
■一条は刑事として、既にグロンギに近い存在と対峙していた。

f:id:hirohobby:20160106225118j:image
■いよいよ次回で最終話、堂堂の大団円をお見逃しなく。

【関連記事】